昭和五十六年六月三日 朝の御理解

 御理解第四十八節 「わが子の病気でも可愛い可愛いと思うてうろたえるといけぬぞ。言う事を聞かぬ時に、ままよと思うて放っておくような気になって信心してやれ、おかげが受けられる。」


 子供の病気の時でも、慌ててはならぬ。放っておくような心で信心してやれと。放っておけというのじゃない。放っておくような心でというのは、神様にお任せしきってという事ね。神様にお任せしきって信心してやれとこう言われる。おかげが受けられる。ここである。おかげというのは、病気が治るというだけではなくて、お徳が受けられるというおかげと両面があると思うですね。
 おかげで病気も治りましたが、あの子供の病気の時に力を受けましたね。神様を信ずる力が確かにあん時出来ましたねというようなね、意味のおかげであると思うんです。一挙両得なんです。ただ子供の病気の時に親が枕元におって一生懸命神様にお縋りをする、家族の者が移り替わりお参りをしてお願いをする。まあこれでもやっぱおかげは受けますね。だからこの信心の何というでしょうか、さまざまなおかげの受ける手立てというか、お徳を受ける手立てというのは一事二事ではない。
 例えば昨日の御理解から頂きますと、商売は合楽理念を以てする外はなしとこうあるが、確かに合楽理念を以てするという事が商売繁盛の根元だ。元だと。云うなら合楽理念は特別教祖の御教えをこう別に工夫したという訳じゃなくて、まあ売り場買場を大切にする。人が十銭で売るなら八銭で売る。体はちびるものではないから働けとおっしゃる。そうなんですよね。合楽理念に基づく。商売が、勿論その中にはいよいよ成り行きを尊ぶとか大切にするとか、黙って治めるとかという信心も入ってきますけれども、商売の繁盛のおかげを頂くという事は、合楽理念によるのだけれども、そのおかげではなく、お徳を受ける為にはとその両面が昨日は語られましたように、今日もやっぱそうです。おかげを受けるという事。
 今日の御理解はまあ云うならば、それこそ腹を決めていさぎよい信心とでも申しましょうか。そして実際は私共信心させて頂く者の上には恐い事もなからなければ、困ったという事すらもないのが本当なんですね。恐いとどうなるだろうかと思うような事がある時に、いわゆる黙って神様に向かう信心。その難儀な問題を放っておいて神様へ向かう信心、そこには恐い事ではなかった。おかげを頂いてみたら私共に力を与えて下さろうとする働き、私共に恐い恐いと思う心ではない度胸をすえさせてもらう度胸をつけさせて頂く為の御神慮であったという事が分かるね。お互いの信心が勿論おかげを頂く為に、一生懸命信心さして頂いとりますが、折角信心さして頂いたら、やはりお徳を受けたい。昨日の朝の御理解の中に例えば、合楽理念をもって商売が繁盛する。その内容として、やはり日参、教聴、心行、家業の行が入ってこなければ本当の、云わばおかげが徳にはならない。
 親の代には繁盛したけれども、子供の代にも孫の代にも繁盛する為にはやはり日参、教聴、心行、家業の行という事によって合楽理念が生き生きとしておかげだけではなく、お徳にもつながっていく事が出来るというように今日の場合もやっぱそうです。
 これは、宮崎の日向教会のあんまり合楽に合楽にというて参ってみえますから、その隣接の教会から注意を受けられた。それで合楽の教師会の時に合楽でしとる話をテープで聞いてもらいなさった。だから決して間違っとる教会じゃない。本当これで頂かなきゃおかげ頂かれんと確信してまあ合楽通いをしておる。あんたが合楽通いをするごたるならば、もうほんなら隣接教会のお付き合いを止める。云わば村八分になられると言われたけれども、やはり合楽の方を取るとして外の教会とは絶縁の状態になって、今合楽一本でおかげを受けておられる教会です。大祭の時ここの先生方皆三、四人でまいります。そこの奥さんがここに参り初めの頃にお夢を頂かれた。というのはどういうお夢であったかというと、広い川を泳いで渡らなければならんという事である。泳ぎには自信があるから泳いで行ったところが、川の中になったらそれこそあの漫画に出て来るような怪物があっちこっちに居ってね、兎に角もう恐い。それでも、もう川の真ん中まで来とるからもう兎に角、死に物狂いで川を渡らして頂いた。その向こうが合楽世界であったという御理解であるお夢を頂いて居った、ね。例えばもう親教会からまあ縁を切られる。隣接教会からもあんたん所とはお付き合いせんと例えばさまざまに言われて、まあそれじゃ困るから言うとったんじゃなくて、そこの所をその恐いと思うておったのは決して恐いものではなかった。本当の合楽世界へはここん所を通り抜けなければというのは、まあ私はお徳の世界だとこう思うんですけれども、ね。信心さして頂いてる中に本当に日参、教聴、心行というなら真面目な信心によってお徳を受ける。
 合楽理念に基づく商売なら商売で繁盛のおかげを頂く。それが云うならば、うちでじっと合楽理念を守ってさえおれば、確かにそれだけでも参ってこんでも繁盛する。そうですよね。十銭のものを八銭で売る。売り場、買場を大切にするというよいな生き方でいけば、けれどもお徳を受ける為には日参、教聴、心行、家業の行が要るんだと。
 今日は私はお徳を受ける為にはです、例えば子供の病気をどうぞというてお願いをする。おかげを頂くですね。けれどもそれをままよと思うて放っておくような信心。日頃の信心に物言わせるというか、これによって一徳受けようというような信心をさして頂いたら私は力を受ける。お徳を受けると思うですね。だからおかげの内容ににもただ病気なら病気が治るというだけではなくて、その病気を通してお徳を受けたという私は構えと云うものが信心には必要である。いつどんな時があっても、云うならば驚かんでもすむといや有り難いですけれども、やっぱり子供の病気といや迷いもすりゃ、およたれ(慌てるの意)もしますけども、そういう時に心を静めてこういう時こそ本気で神様におすがりしなければならない時だ。いよいよこういう時にこそ力を受ける時だというなら、御教えを受けときますとね、それが出来るんです。それが、完璧に出来んでも完璧に出来たかのようにして、おかげも下さりゃ力も下さるんです。これはね、御理解を頂きこんどかんとね。そういう時にやっぱ不安です。
 具合の悪い子供を放っておくちいうようなこつは不安です。不安ですけれども神様はああ教えて下さるからと放っておくような気持ちになって一心にお縋りをさしてもらう、ね。本当に教えは頂いとかにゃいけませんよ。
 私が北京時代に長女が生まれます時、大変な難産でした。もう本当にあのう初めての事ではありますし、勿論病院でその当時はまあだ北京でも自分の家に産婆さんが来て生ませるというのが普通でしたけれども、少しもようが悪いち言いますので病院に入れました。病院でも大変難産でした。もう私は病室で一生懸命御祈念して、心もとないけれども、まあこれから善導寺まで位の離れた所に北京の教会がありましたからまあお参りさせてもらいました。そしてお参りしては帰りお参りしては帰りしてから、病室で一生懸命御祈念、こんなして(しっかり手を組んで)御祈念さしてもらいよったら、本当にですね。この手が外れませんでしたよ。ちょいと。生まれたと言うて病室に言うて来た時、その時にゃね、もう本当にがっかりして一生懸命、そんならお願いもした。お参りもした。そしてもう生まれて安産のおかげを頂いて、安産ではない、無事に生まれたという事を聞いたら、がっかりしてしまちから、それこそ手のはずれごつ一生懸命はずちから(頑張るの意)拝んでる訳です。それでもね、すぐにお礼に出ろうとしなかった事があるんです。お願いには慌てて出てくる。それこそ子供を放ってでもあのうお参りするとか、出てくるという事によってそしておかげを頂いたらもうやれやれというて、もう電話ででもお礼を言うときゃよか位な気持ちが出来て来た時に、日頃の教えというのがそんなにその血に肉になっておったとも思われんけれどもね、お願いには慌てて出る、一生懸命。出たならばお礼も慌てて一生懸命行かにゃいかんといったような、閃いてですね、ほっと我にかえったようにしてお礼に出た事がございました。だから教えは、やっぱり頂いとかにゃいかんです。いや、何か難しい時にですね、はっと教えが自分のものになりなりきっていないけれども、はあこういう時が放っておいてでもという時だなあと思ってね。まあ心ではびくびくではあっても、神様に心を向けてくるという事になれば、びくびくじゃない本当にそういう信心が出来たかのようにして、おかげ頂くんですばい。だから教えは頂いとかにゃいかんです。そして私はだんだん信心がです、おかげだけの世界からおかげと共にお徳、力を受けていく世界、そういう信心になっていかにやいけんと思うですね。どうぞ。